井伏鱒二「朽助のいる谷間」

 谷本朽助(七七歳)の孫のタエトという娘から手紙が来た。「この谷底にダムが出来ることになり、私どもの家は立ち退かなければならなくなりました。けれども、祖父・朽助は反対なのでございます。弁護士でおられるあなたならば(中略)祖父を説き伏せて下さい(後略)」。私はしばらくの間、朽助とタエトが住む家に寝泊りして朽助の説得を試みるが・・・。

山椒魚 (新潮文庫)

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 過去のいきさつを「水に流す」という言葉がありますが、それは先の方に新たな道が見えている場合に限られるものだと思います。朽助には、その道が全く見えません。なので、ダム建設→住み家の破壊が、この世の終わりだと感じます。少女タエトは未来を持つ存在であるため、道が見えており、それを朽助に示そうとして、とても熱心に行動します。主人公である「私」は動物的行動をとりそうになりますが、タエトの純粋さがそれを恥かしいものとして認識させます。このタエトの言動には、100%の好ましさを感じずにはいられません。思いやりの気持ちと優しさがこもった、雰囲気のある谷底が描かれています。

 「おそいから、うちへ帰ろう!」
 「なんぼうにも私らは、ここの家の方が好きだります。何処へ寝起きしようとも、私らは私らの勝手ですがな」
 「バッド・ボーイは止せ。早く帰ろう!」
 「いっそ私らは、今日は新しき闘争とかたらをしているのでがす。心配しなさるなというたら」