尾崎翠「第七官界彷徨」

 この家には勉強熱心な家族が住んでいるのである。二助の部屋からは肥やしの匂いが漏れ、三五郎は受験とは無関係なオペラを歌い、一助は彼らを「分裂心理だ」と言っている。そこで私は詩の勉強を始めたのである。人間の第七官に届くような詩を作ってやりましょう。そして、とうとう二助の部屋では苔が恋愛を始め、三五郎は私の髪を切るといい、一助は何か悩みがあるようである。

尾崎翠集成〈上〉 (ちくま文庫)

尾崎翠集成〈上〉 (ちくま文庫)

 一家の日常を綴った雑記風の物語ですが、この作品の世界観というか空気というか、その独特さに浸れるかどうか、ということになります。読書好きに高い人気を誇る作品です。
 彼らの立ち位置は皆少しズレています。そのズレを本人たちが気付いていないので、会話はどうにもかみ合いません。この不思議さにしばらくは違和感を感じるでしょうが、その日常的な空気に慣れてきたら・・・作者の目線が見えてきます。
 人間たちに対する視点のやさしさと、全体をつつみこむ穏やかな(けれども臭い!)ユーモア。これらがミックスされると理屈っぽい頭は溶けてしまい、何が起こっても受け入れられる、不思議な読書空間が得られることと思います。

 これは、ここだけのはなしですが、いまでもわたしは、ときどき、いっそひとおもいに、植物に変形してしまおうかと考えることがあります。そして、そんなとききまってわたしの記憶の底からよみがえってくるのは、尾崎翠の「第七官界彷徨」という小説です。十代のおわりに読んだきりですが、そのなかに描かれていた苔の恋愛のくだりなどはすばらしくきれいでした。したがって、かの女は、相当、ながいあいだわたしのミューズでしたが、その後、風のたよりにきいたところによると、気がくるってしまったということです。いま、手もとに本がないので読みかえしてみることのできないのが残念ですが、異常なまでにあかるい日のひかりのみちあふれたようなその小説のなかには、みごとに植物のたましいがキャッチされていたような気がします。とすると、その植物は、われわれの周囲ではめずらしい例ですが、二十世紀の植物だったのかもしれません。(花田清輝「恥部の思想」)

 よほど遠い過去のこと、秋から冬にかけての短い期間を、私は、変な家族の一員としてすごした。そしてそのあいだに私はひとつの恋をしたようである。

尾崎翠 (ちくま日本文学 4)

尾崎翠 (ちくま日本文学 4)