自然への転回

長谷川四郎「勲章」

この大隊は旧軍隊の秩序をそのまま保持しており、佐藤少佐はシベリヤ天皇として特権的な生活を送っていた。しかし、本人はさほど意識していなかったようだが、彼も所詮捕虜であった。或る日着任してきたロシヤ人将校は、少佐と兵隊たちに権力がいずこにある…

梶井基次郎「闇の絵巻」

闇!そのなかでわれわれは何を見ることもできない。思考することさえできない。何が在るかわからないところへ、どうして踏み込んでゆくことができよう――。闇を愛することを覚えた私は、旅館から旅館への10キロほどの道のりを愛した。力強く構成される街道の…

宮沢賢治「グスコーブドリの伝記」

グスコーブドリは、イーハトーブの大きな森のなかに生れました。ある年、森は飢饉におそわれて、大切な穀物も一つぶもできませんでした。お父さんとお母さんはいなくなり、妹のネリも連れていかれてしまいました。ブドリは泣きましたが、与えられた仕事をい…

井伏鱒二「大空の鷲」

御坂峠の空を自由にとびまわり、下界を睥睨する鷲がいる。茶屋の人たちは、この鷲を御坂峠のクロと呼んでいる。あるときは大きな魚を、あるときは猿をくわえ、クロは諸所方々にある根城にもっていく――。横着な監督に率いられた映画の撮影隊がきた数日後、東…

井伏鱒二「屋根の上のサワン」

猟銃に撃たれて苦しんでいる雁を見つけた私は、丈夫にしてやろうと決心し、さっそく家に連れて帰りました。勘違いして騒ぐ鳥を押さえつけて手術を施し、一安心です。順調に回復してきた人なつこい鳥に、私はこれにサワンという名前をつけました。そして、秋…

埴谷雄高「虚空」

"Anywhere out of the world!" 地の果てに到着した私が発したその声は、虚空への呼びかけである。虚空への内なる切なげな喘ぎである。虚空には透明な風がはためいている。けれども地を這う習性を持つ私の喘ぎは、そこで自身へとひきもどされる――。数日前に、…

長谷川四郎「張徳義」

橋の警備隊にとらえられた張徳義。彼は半地下に入れられ、日本兵の奴隷として暮らすことになった。馬とともに鞭打たれる激しい労働、残飯を与えられて暮らす日々。古い上官が去り、新しい上官が来たが、彼に対する扱いに変化はない。彼の存在は忘れられてい…

大江健三郎「洪水はわが魂に及び」

樹木と鯨の代理人を自認する大木勇魚は、野鳥の声を聞き分ける五才の少年ジンと、閉じられた核シェルターの中に穏やかに暮していた。そんな彼らの可能性を「自由航海団」の影が開いてゆくが、そこにケヤキ群の「樹木の魂」が語りかけてくる。注意セヨ!注意…

太宰治「魚服記」

馬禿山の滝つぼ近くの茶店で、店番のスワはすべて父親の指示どおりにしていた。しかし、このごろ、スワはすこし思案ぶかくなってきたようである。ながめているだけでは足らなくなってきたのだ。父親は、売れても売れなくても、なんでもなさそうな顔をしてい…

大江健三郎「ブラジル風のポルトガル語」

ぼくと森林監視員とは、五十人近い村人が集団失踪した部落を訪れた。彼らの失踪に思い当たる理由はない。発狂でもなければ、税金に苦しめられたのでもない。――変わり映えのしない現状からの脱出に理由はあるのか、いや、理由なんているのだろうか?空の怪物…

石川淳「八幡縁起」

石別を抱えた山は、高く天にそびえ、茂みは大山となった。土地で山は神であり、その主である石別は山そのものであった。ある日、はるかかなたに丘がうまれ、それは三七二十一日目に山となった。ふもとの土地で新王の隣にそなえた荒玉は、血をこのむ新しい霊…

大岡昇平「焚火」

空襲のとき、五歳だった私は母と一緒に逃げました。どんと大きな地響きがして、気がつくと、母は腰から下がコンクリートや木材のかけらの下になっていました。そのときの母の真剣な眼が今も忘れられません。「みっちゃん、歩けるわね。一人で行けるわね」。…

北杜夫「河口にて」

アントワープからル・アーブルまではわずか一日足らずの距離なのに、船は濃霧のため、未だ河口にとどまっている。このあたりには数十隻の船がぎっしりとかたまり、幻聴のような鐘の音を響かせあっている。すでに空と水との区別もむつかしく、霧はさまざまな…

北杜夫「少年と狼」

森と山の麓の草原のあたりに、デヒタというへんちくりんな少年がすんでいました。いつも仲間はずれにされていたデヒタは、よし、山へ行ってみよう!と思いました。大変むつかしいことでしたが、デヒタはがんばりました。たどりついたちいさな沼で、デヒタは…

大江健三郎「運搬」

僕は仔牛の下半分を両腕にかかえあげ、すべり落ちようとする肉のぶよぶよとした感覚に汗ばみながら、どうにか自転車にくくりつけた。僕らの自転車は夜ふけの町を快い速さで進んだ。僕にとってこれは決して悪い仕事ではない。僕はすべてが快活な状態にあるの…

開高健「パニック」

去年の秋、この地方でいっせいに花ひらいたササは、あらゆる種類の野ネズミを呼び寄せた。春の訪れとともにネズミは洪水となって田畑にひろがっていくだろう。この貪婪集団の行く手を阻むものは何もない。この事態を察したのは、山林課の俊介だけだった。だ…

井伏鱒二「朽助のいる谷間」

谷本朽助(七七歳)の孫のタエトという娘から手紙が来た。「この谷底にダムが出来ることになり、私どもの家は立ち退かなければならなくなりました。けれども、祖父・朽助は反対なのでございます。弁護士でおられるあなたならば(中略)祖父を説き伏せて下さ…

島尾敏雄「徳之島航海記」

出撃の指令を待つ日の下で、私は体をこわばらせていた。私は飛行機からの爆撃を恐れていた。だがそれを人に言うことは出来なかった。私は部隊長だったからである。そう、私は臆病なのである。部隊長として常に注目をあび、全ての行動に責任が要求されるが、…