大岡昇平

大岡昇平「焚火」

空襲のとき、五歳だった私は母と一緒に逃げました。どんと大きな地響きがして、気がつくと、母は腰から下がコンクリートや木材のかけらの下になっていました。そのときの母の真剣な眼が今も忘れられません。「みっちゃん、歩けるわね。一人で行けるわね」。…

大岡昇平「捉まるまで」

マラリアを発病し、アメリカ軍から逃げるうち、私の心は生死の間を行き来していた。情報は錯綜するが私はとうとう動けなくなり、一人で腰をおろし、仲間とはぐれた。敵の存在など既に意識の外にある。水筒は空になり、生い茂る雑草の中で横になった・・・す…

大岡昇平「春の夜の出来事」

女道楽は仕放題、女房子供は放ったらかし、それが俳優の常識だった時代である。美男俳優の夫は失踪し、息子・太郎はすでに一人立ちしていた。そしてある夜のこと――母・露子の家に泥棒が入った。露子は、様子を見に行った太郎の叫びを聞く。「人が死んでる」…