北杜夫「河口にて」

 アントワープからル・アーブルまではわずか一日足らずの距離なのに、船は濃霧のため、未だ河口にとどまっている。このあたりには数十隻の船がぎっしりとかたまり、幻聴のような鐘の音を響かせあっている。すでに空と水との区別もむつかしく、霧はさまざまな杞憂を生む。停滞するこの世界から、いったいいつになったら動けるのだろう。いったい今日は何日なのだ。白い霧の帳がすべてを呑みこんでゆく。


 霧のせいなのか、気分のせいなのか、憂鬱な乳白色が周囲を覆い尽くしています。濃霧は、物の姿をぼかし、人の心をぼかし、日常の記憶をぼかし、夢と現実の境をぼかしていきます。とても憂鬱かつ幻想的なイメージをもった小説です。