太宰治

太宰治「正義と微笑」

晴れ。朝十時、兄さんに見送られて、出発した。人生の首途。けさは、本当にそんな気がした。握手したかったのだけれど、大袈裟みたいだから、がまんした。兄さんはどうも試験を甘く見すぎる傾向がある。でも僕は、また落ちるかも知れないのだ。その辛さ、間…

太宰治「満願」

これは、いまから、四年まえの話である。私が伊豆で一夏を暮し、ロマネスクという小説を書いていたころの話である。泥酔して怪我をした私を治療しに現れた、泥酔したお医者さん。おかしさに笑いあった二人は以来仲良しになったのである。お医者さんのお宅に…

太宰治「女生徒」

あさ、眼をさますときの気持ちは、面白い。朝は、なんだか、しらじらしい。朝は、意地悪。眼鏡は、お化け。私の目は、ただ大きいだけで、がっかりする。私はほんとうに厭な子だ。そう言ってみて、可笑しくなった。美しい目のひとと沢山逢ってみたい。けさか…

太宰治「新樹の言葉」

がぶがぶのんで、寝ていたら、宿の女中に起こされた。乳母の子供の幸吉さんが、わざわざ訪ねてきてくれたのである。ああ、これはいい青年だ。私にはわかるのである。ただ、大変ひさしぶりに会ったのに、ごろごろしているところを見られて、恥ずかしかった。…

太宰治「ロマネスク」

むかし津軽の庄屋に、太郎という男の子が生れた。これは生れるとすぐに大きいあくびをし、動くこといっさいを面倒がるのである。彼はいつも退屈そうに過ごしていた。そして、はやくも三歳のときにちょっとした事件を起し、そのお蔭で太郎の名前が村のあいだ…

太宰治「魚服記」

馬禿山の滝つぼ近くの茶店で、店番のスワはすべて父親の指示どおりにしていた。しかし、このごろ、スワはすこし思案ぶかくなってきたようである。ながめているだけでは足らなくなってきたのだ。父親は、売れても売れなくても、なんでもなさそうな顔をしてい…

太宰治「畜犬談」

諸君、犬は猛獣である。彼らは馬をたおし、獅子をも征服するというではないか。いつなんどき怒り狂い、その本性を発揮するかわからない。世の多くの飼い主は、さながら家族の一員のようにこれを扱っているが、不意にわんと言って喰いついたら、どうする気だ…

太宰治「たずねびと」

故郷へ向かう列車内はひどい暑さでした。病弱な二歳の男の子は泣き通しでしたし、五歳の女の子も結膜炎を患っています。汚いシャツの父親と、髪は乱れて顔に煤がついた母親と・・・。その列車の中でお逢いしたひとに、再びお逢いしたいのです。そして、お伝…

太宰治「トカトントン」

日本の敗戦を知ったその日、絶望に「死のう」と決意したとき以来のことです。どこかからトカトントンという音が聞こえてきたとたんに、私は感情を失ってしまうのです。トカトントン、仕事中にもトカトントン、デート中にもトカトントン。とたんにこんなこと…

太宰治「ダス・ゲマイネ」

佐野次郎こと私は、シューベルトに化け損ねた狐のような男である馬場と出会った。親しくなったとき、彼は一冊の本を出版しないか、と持ちかけてきた。そうして集まったのは、絢爛たる美貌と貧弱な体を持つ絵描きの佐竹、そして、作家の太宰治という男。走れ…

太宰治「桜桃」

夫はジョークをいい、妻も愛想がよい。子供たちは元気で、忙しくも楽しい食卓の風景。けれども妻が発した何気ない一言が、彼らの仮面を1枚はぎとった。悩みの深さを笑いに変え、必死に生きる父親の心。それは、子供たちより、脆くて、弱い。ヴィヨンの妻・…