太宰治「正義と微笑」

 晴れ。朝十時、兄さんに見送られて、出発した。人生の首途。けさは、本当にそんな気がした。握手したかったのだけれど、大袈裟みたいだから、がまんした。兄さんはどうも試験を甘く見すぎる傾向がある。でも僕は、また落ちるかも知れないのだ。その辛さ、間の悪さは格別だ。学校の試験で失敗したって、「なあに僕には別の道があるのだ」とプライドで持ちこたえる事が出来たけれど、こんど失敗したら、もう僕は他にどこへも行くところが無くなるのだ。もう道がない。死なねばならぬ身なのだ。手が震える。途中、電車の中で、なんども涙ぐんだ。いよいよ、はじまるのだ。

パンドラの匣 (新潮文庫)

パンドラの匣 (新潮文庫)

 主人公、十六歳の春。同級生の学生生活を浮ついたものだとし、プロフェッショナルに生きたい!と渇望する孤独な日々。他者への厳しさと自分への厳しさが等しくて、人間関係に繊細で、とても優しい家族思い。そんな彼の日記です。

 「ここは自分の居場所ではない」と感じている人、あるいは「もっとまじめにならなければ」と思っている人であれば、年齢職業に関係なく、行動の喚起力が掻き立てられると思います。
 姉妹編とされる「パンドラの匣」とともに、太宰治にしては珍しい、希望に満ちた青春小説とされます。「パンドラ〜」では天皇に対するメッセージが語られることもあり、この「正義と微笑」の方が今日の読者には幅広く受け入れられるのではないでしょうか。

 主人公は真面目に学問だけに打ち込み、向上したいのに、周囲の学生たちは勉強以外を重視して、どちらが大事なのかよく分からない。今は大学院生も同様であり、「付き合い」や「空気を読む」ことが重視される風土では、自分に課した規律を保つことすら困難です。
 この主人公の良さは持って生まれた才能でも、日々の努力でもなく、目標を決して下げないことにあると思います。手近な満足感を得るために下げることはせず、高く保ったままでいるために、いつも自分のふがいなさを悔いていて、不満でいっぱい。上手くいっても満足せず、失敗したときの反省は人一倍。
 だからこそ「なあなあ」で生きる人々の中に違和感を感じて、高い目標を抱き続ける主人公は「相対孤独」を思います。
「学校は、学問するところではなくて、くだらない社交に骨折るだけの場所である。(中略)仲間はずれでも、よろしい。こんな仲間にはいって、無理にくだらなくなる必要はない。」
 それが日記内では、「あいつは馬鹿」とシンプルに表現されます。(日記だから構わないわけですが)他にも他者への悪口にあふれているので、上から目線ともとれて、チョッピリ気になります。

 けれども、それこそ作者の狙い。「作者は意識して、青春の正義心、反抗心、純粋さ、フレキシビリティ、不安、懊悩、挫折、よろこび、勇気、生命力、虚栄、極端性などを強調している」(奥野建男氏の解説)

 人をけなす暇があれば、自分を高める努力をしろ。そうした前段階があるために、成長ぶりに感動し、門出を祝いたくなるのです。人は失敗からしか学べません。思い通りにならないことの連続から日記の中身が少しずつ変化し、そして実際の生活がロマンを奪い、リアリストへ・・・少年から大人へ・・・。
 笑い、喜び、敗れ、崩れ、泣き、そのとき浮つかず、堕落せず、身を支えるのは信仰心、そして、家族の変わらぬ愛情でした。太宰治、生誕百周年。私はやっぱり、明るさとユーモアがある、中期作品群が好きなのです。

 ・・・それにしても、お兄さんは大丈夫なのでしょうか(笑)。



 生活から遊離した理想と違い、現実はかく卑小であること、しかも理想を実現するためにはその卑小な屈辱の体験を経ねばならぬという作者の苦しい自覚が『正義と微笑』のテーマのように思える。(奥野建男)

 <誰か僕の墓碑に、次のような一句をきざんでくれる人はないか。「かれは、人を喜ばせるのが、何よりも好きであった!」> 太宰治は小説「正義と微笑」でこう書いた。リングに倒れたプロレスラー、三沢光晴さん(46)の悲報にこの言葉を思った。(玉木研二毎日新聞、2009年6月16日付)

 あすから又、一週間、学校へ行くんだ。僕は、かなり損な性分らしい。現在のこの日曜を、日曜として楽しむ事が出来ない。日曜の蔭にかくれている月曜の、意地わるい表情におびえるのだ。月曜は黒、火曜は血、水曜は白、木曜は茶、金要は光、土曜は鼠、そうして、日曜は赤の危険信号だ。淋しい筈だ。

 思いがけない事ばかり、次から次へと起ります。人生は、とても予測が出来ない。信仰の意味が、このごろ本当にわかって来たような気がする。毎日毎日が、奇蹟である。いや、生活の、全部が奇蹟だ。