深沢七郎「笛吹川」

 「死んで、あんな所に転がせて置くなんて」。おけいは表に出ると、片目で土手の方を睨んで歩き出した。勝やんはまだ死んでいない気がしたのである。右の手で左の腕をさすりながら、側へ行って顔を覗き込んだ。着物はズタズタに斬られていて、身体中が血だらけだった。目を開いているが眼玉は動かなかった。それでも胸のあたりが少し動いていた。「まだ生きていやす、早く、知らせてきて」と言われて、定平は駈け出して行った。

笛吹川 (新潮文庫 ふ 5-2)

笛吹川 (新潮文庫 ふ 5-2)

 戦国時代の甲斐国武田信虎、信玄、勝頼の三代が戦をしまくっていた頃、そのおひざ元に住んでいた、貧しく平凡な農民一家の六世代に及ぶ年代記(実質的には五世代)。当然、戦に駆り立てられて・・・というより、若者は自ら進んで戦に行くのですね。力と運次第で一夜にして出世出来るからか、男子の血が騒ぐからか、それとも、みんなが行っているからか。あるいは、先祖代代お世話になっている御屋形様のためか・・・。
 そして、殺される。虫のように踏みにじられて、捨てられる。それでも、次世代の若者はまた戦に行く。親たちの無念だけを残して・・・。ここにあるのは、救いのない環。

 日々仕事に精を出す素朴な生活には、時折、相応の幸せが与えられます。それは主に家族が増えることであり、これで殺伐とした空気が幾分和らいでいますが、でも、やっぱり、大変な話です。残酷なシーンが多い話の中身はむろんのこと、提示された世界観と、それを表現する技法が特に。

 まるで見てきたかのように、当時の農民の暮らしが語られます。縁起担ぎや信仰心が大切で、噂話に終始する、つまり至って平凡な生活ぶりは、そのすべてが事実のようにも思えます。このあたりの筆力は、独特の感性を持つ作者・深沢七郎の独壇場。ドキュメンタリーのようなスタイルの徹底も、効果的なようです。
そして、時をすっ飛ばす、作者の技。改行を入れずに数か月が経過する不思議さや、前行まで主人公として活躍していた人間が「○○は死んだ」で済まされて、さっさと次の場面へ移っていく、その衝撃。驚く暇も余韻もなく、感傷や思い出に浸ることを許しません。人物への感情移入を否定し、意図的に「時間を隠す」ことで、封建的な変わらない日々が延々と続くことが示されます。
 それだけに、50ページに1度くらいの割合で訪れる、じっくりと描かれたシーンがとっても素晴らしいコントラスト。それは鮮烈で、印象的で・・・作者の狙い通りなんでしょう、いずれも名場面となっています。

 安易なドラマの盛り上げを拒否し、展開はいたって唐突に。飛ばす場面とじっくり描写する場面が前フリなく訪れるので、一行たりとも気が抜けませんでした。この感覚、どこかであったものですが、ああ、そうか、コーエン兄弟の映画「ファーゴ」と「ノーカントリー」を混ぜて、人物に着物を着せた感じ、でしょうか。

 特異な形式のため、普通の小説に慣れた読者はあっけにとられると思います。経験からくるパターン認識、展開の予測が全く通じないことに対して、感覚が崩壊すること請け合い。逆にいえば、王道、スタンダードを求める読者にとって、この作品はあまりに挑発的です。

 真実は近ければ近いほど見えにくくなり、集団での行動は理性や客観的な判断を奪います。そんなラストは極めて印象深い。戦争って悪い、というより、恐ろしいですね。人間の精神にも影響を及ぼすのだから。あんなにいい子だったのに・・・。



 なみの作家なら、庶民の生活に戦争がどういうかたちで侵入し、根こそぎ平和を奪っていったかを、今次大戦の悲惨に仮託させるなどして、被害者の立場からうったえるだろうが、そういったヒューマニズムの立場を深沢氏はとらない。犬ころのように殺されていった人々の運命を無表情に描くのみである。(略)「笛吹川」が喚起するイメージを、美しいと見る人はまずいないだろう。不気味だし、おそろしい。(日沼倫太郎、解説より)

 「楢山節考」には世話物の甘い呻吟があるが、「笛吹川」は異様な秀作である。(中略)読んでいて気がつくことは、形容詞らしい形容詞がほとんどないこと、登場人物の男女老若のけじめがまったくつけてないこと、徹底的に詩と自意識を漉した散文でつづられていることである。(中略)作者は知りつくしたうえで書いているようにも見えるし、何も知らないで書いているようにも見える。そこに謎を感じる楽しみがある。これくらい腐りにくい要素で編んだ散文は例がないし、貴重である。(開高健「人とこの世界」)