開高健「ずばり東京」

 東京へ、東京へと人がおしよせてくるので土地の値段がめちゃくちゃにあがっている。練馬のお百姓さんとなると、十億、二十億になるという。みんなどんどん転業して、社長になり経営者になっている。しかし、話を聞いた七人のうち、一人だけ今も変わらずに、キャベツを作り続けている三十一歳の若者がいた・・・(「練馬のお百姓大尽」)。
 動物園はどうしてこう悲しいのだろう。とりわけ心が疲れているときは・・・。獣医や飼育員に聞いたところによると、ガラスやコンクリートのなかで、動物がおかしくなっているそうである。不精になり、運動不足で太り、スモッグで肺がまっ黒になってしまう。白鳥がカラスに、白クマが黒クマになり、ペンギンは三日で死に、サルの鼻毛がのびてきた(「上野動物園の悲しみ」)。
 「見る」ことは「そのものになる」ことである。昭和39年頃、後の巨匠・開高健が、毎週毎週どこかへ出かけて新しい人と会い、話を聞き、とりとめもなく見聞を書きつづった、ルポルタージュ

ずばり東京 (文春文庫 (127‐6))

ずばり東京 (文春文庫 (127‐6))

 開高健が真っ白な原稿用紙を前に悩んでいた時、技巧をこらして行ったデッサン集。
 時代のにおいを生き生きと伝える名著でしょう。時を経るごとに価値が高まる類の本ですが、あまりに経ちすぎると現代とのモノの乖離が大きくなるので、このくらいがいいところ。
 現代人がノスタルジーをこめて描く(美化された)昔より、当時の人間による生々しいライブの方がケタ違いに面白い(もちろん整理されてはいないし、後から振り返ると間違いもあるが、それも全てひっくるめて)、そう感じる方に、オススメできる作品です。

 タクシー運転手、競馬の予想屋、屋台のおやじ、画商、葬儀屋、風俗嬢、ヒッチハイク中の外国人、医者へのインタビュー。上野動物園上野駅新宿駅、駅の遺失物保管所、完成直後の東京タワー、労災病院少年鑑別所・少年院への訪問。そのほか、「トイレ」のその後を最後まで追いかけ、孤高の芸術家・スリの動向を探り、ホテル並みの設備を持つ病院で人間ドック体験(これ、悲惨)をし、古書店業者の競り市へ出かけ、そして東京オリンピックの開会式&閉会式を見て・・・他にもたくさん、たくさん!

 時は今から46年前、オリンピックを迎えようとする巨大都市・東京。奇跡的な高度成長の真っただ中にあり、日本が世界の一流国の仲間入りを果たしたとされる時期です。しかし、作者・開高健の目に写った東京、この本の中の東京は、決して明るくはありません。
 人間は常に「昔は良かった」と言いますが、決してそんなことはなく、今も昔も変わらんのです。一億総中流と言われ出した頃のはずですが、作者はこの時期すでに「この国の貧富の格差には、はっきりと、えげつない、激烈なものがあるのではないか」(「デラックス病院の五日間」)と言っています。「天国と地獄の距離がすさまじいのではないか。あまりに距離がありすぎるのではないか?」(同)と。作者が富める部分よりも困窮の中に住むために、高度成長から脱落した、しつつある人間たちの生活に敏感で、その姿を温かく、鮮やかに描き出しています。彼らの日々の暮らしは、現代同様疲れ切っているのです。格差社会は最近の出来事ではないようなのです。ホッホッと笑う者たちへの反発と、汗水垂らして働く者たちへの尊敬が、このルポの背後にある「一本の糸」(終章より)を明確にすることでしょう。

 途中まで好奇心旺盛な楽しさにあふれますが、後半は社会批判の度合いが増します。国民熱狂のオリンピックで、その虚しさはMAXに。作者は「こんなことに金を費やすより、他にやることがあるんじゃないか?」と感じ、そのことを具体的な数字もあげて著しています。このときの思いは、おそらく、ひとつ。はたして、日本は本当の意味での一流国なのかどうか??これこそは、今にも通じる問いだと思われます。現在、不況のさなかに、2016年東京オリンピックが官主導で招致されていますが、さて・・・。

 もちろん、現代に変わらず残ったもの、姿形を変えて生き残ったもの、完全に消えてしまったもの、それらを探るという読み方も出来ますね。いくつかのエピソードは、当時すでに時代(近代化)に敗れ、なくなりつつあった仕事をテーマとしています。作家として最後の目撃者になることを自覚しつつ、真正面から正直に、あえて厳しい事もずばり書くことで、彼らに深い敬意を表しています。現代の東京を舞台にして、同じテーマで同じようにルポを書いて並べたら、とても面白いことでしょう。

 いずれ劣らぬ傑作ぞろいですが、MYベストは「上野動物園の悲しみ」です。作者の目は事の変質を機敏にとらえ、その鋭さのために彼らの分まで悲しみ、うなだれるのです。そして、とうとうゴリラが立ち上がり・・・もっとも小説的な形であり、また批評の角度が私好みだったので。
 以下、いくつかのエピソードから印象的なトコを引用。

小さな灯から人びとの声は生れて、凍てついた暗い未明の空へ細い煙のようにもつれあいつつのぼっていくのである。(師走の風の中の屋台)

いまの日本の”マスコミ”とはハイエナとカラスとオオカミを乱交させてつくりあげた、つかまえようのない、悪臭みなぎる下等動物である。おためごかしの感傷的ヒューマニズムと、個性のない紙芝居じみた美意識と、火事場泥棒の醜聞あさり、ナマケモノぐらいの大脳とミミズの貪慾をかきまぜてでっちあげた、わけのわからないなにものか儲かるものである。正体はつかめないとしても、接したらたちまち顔をぬれ雑巾で逆撫でされたような気持になり、自殺を考えたくなる、なにものかである。(練馬鑑別所)

どうやらこのあたりで聞くと、巷の白鳥たちが声を失い、姿を消したのは“近代化”のせいのようである。そして“近代化”とは、利口で、正確で、ゆとりがないということらしい。寛容とか、即興とか、想像力などというものは追放されるらしい。(縁日の灯はまたたく)

だいたい新刊本屋はギラギラして毒どくしいので私は苦手である。無数の著者がオレが、オレがと叫びたてているようである。こわばった、とり澄ました顔で、おごそかに、つめたく、叫びたてている。オレの意見を聞け、オレの本を買えといって叫びたてているのである。(古書店・頑冥堂主人)

「今日の陛下はよくできた。短かったからよかったんですね」(超世の慶事でござる)