井伏鱒二「へんろう宿」

 ここ「へんろう宿」で私を出迎えてくれたのは、50くらいの女である。奥の部屋へ行くためには居間を通る必要があるが、そこには80ぐらいのお婆さんと60くらいのお婆さんが座っていた。どこを見渡しても、男手というものが見当たらない。いわくについて知ることが出来たのは、隣室の客とお婆さんの一人の話し声が耳に入ってきたためだった。

山椒魚 (新潮文庫)

山椒魚 (新潮文庫)

 おばあさん達によって経営されている不思議な宿の、不思議ないわくについての話です。ここには運命の輪廻といったものを感じます。けれども、当の彼女らからは暗さを感じません。おそらく彼女らは運命をそのまま受け入れて、環境内で前向きに過ごすという生き方を発見しているのでしょう。それを与えているのは「宿」そのものです。彼女らに自ら運命を切り開いていく意志は見当たりません。建物が壊れてしまわない限り、彼女らは永遠に、何代にも渡って同じ生活をし続けることでしょう。ここまで気づいたときにようやく、輪の中に踏み込んでしまったことに気づいて、ゾッとするものを感じることでしょう。不思議なブラックユーモアが一変するところが読みどころです。
井伏鱒二全集〈第9巻〉へんろう宿・円心の行状

井伏鱒二全集〈第9巻〉へんろう宿・円心の行状