井伏鱒二「かきつばた」

 小林旅館にある伊部焼の水甕は、高さ四尺で朱色に近く、私は非常にそれを欲しがった。ところがおかみさんは譲ってくれない。広島の空襲後、旅館はすでに立退いていて、水甕は放置されたままだった。健在の日の思い出が去来し・・・しかし、いまいましい。棄てていくなら、譲ってくれてもいいだろう。敗戦を境に不眠症にかかった時、回覧板で集合をかけられた。

かきつばた・無心状 (新潮文庫)

かきつばた・無心状 (新潮文庫)

 アレヤコレヤの仕事の山に追われた主人公と町人たち。いろんな場所から人間が集まり集団になると、中にはちょっと嫌な人もいたりしますが、それでも黙って仕事をこなさなくちゃいけません。弱者の視点、小市民の視点を交えながら、終戦直前直後のあわただしさを描きます。
 何が起こっても不思議ではない時、何を見ても驚けない時。そんな状況に堕ちきるためには、処理能力の限界を超えた台風に襲われることです。そんなものに襲われたくはありませんが、空から突然爆弾が落ちてきたんだから仕方がありません。
 ところが人間というのは不思議なもので、結構あっさりと新しい状況に慣れてしまうようです。これを適応、あるいは、麻痺と言います。事々の境界線を失ってしまうと、ちょっと離れた事柄でも一緒にして考えてしまいがちですが、そんな時にも「アレとコレとを一緒にするな!」と頑なに安易な融合を拒み、自分の世界を守ろうとし、きっちりと区別して未来に進もうとする人間もいるのでした。