石川淳「小公子」

 酔いどれどもが去ったあとに残った客は、若い男ただひとり。主人が「あなたはむかしお見かけたような」と声をかけると、客は「ぼくの生活は明日だけだ。きのうや、きょうのことは、もうおぼえが無い」と答えた。おやじが「また明日きてくれ。きょうの勘定はいらないよ、むかしばなしのお礼だよ」というと、客はコップをおやじに投げつけ、スタンドを乗り越えて、おやじを突きとばした。

石川淳全集〈第5巻〉

石川淳全集〈第5巻〉

 客と店の親父の2人の人生観が戦う小説です。親父は、「今日」は「昨日」までの過去の積み重ねであり、『今日も一日ご苦労さん』と客に酒をすすめます。客は、「今日」は「明日」のためのスタートであるとし、「過去」のすべてを否定します。彼らは異なる次元に生きていますが、いわば親父は「昨日」≦「今日」で、客は「今日」≦「明日」。その=(イコール)の部分で、彼らは出会いました。
 親父は、過去に蓄えた義理人情の暖かさの中に暮らします。客はその点冷酷ですが、常に前に進もうとして足がざわざわ騒いでいます。また「今日」が踏み台に過ぎないとするならば、客は「今日」というときに「癒し」だの「安らぎ」だのといった、「昨日」の充足は決して求めないでしょう。そう断言出来るのは、私が客と同じだからです。そして、おそらく石川淳も。

 「ぼくの知っていることは、ぼくの明日の生活だけだ。(略) きのうはどうしたか、いや、きょうはどうして生きて来たか、もうおぼえが無い。」

 「だが、あたしにとっちゃ、この一杯の焼酎はきょう一日がおわったということだよ。(略) あしたという日のことは、かんがえてみたことがないよ。」