石川淳「小公子」
酔いどれどもが去ったあとに残った客は、若い男ただひとり。主人が「あなたはむかしお見かけたような」と声をかけると、客は「ぼくの生活は明日だけだ。きのうや、きょうのことは、もうおぼえが無い」と答えた。おやじが「また明日きてくれ。きょうの勘定はいらないよ、むかしばなしのお礼だよ」というと、客はコップをおやじに投げつけ、スタンドを乗り越えて、おやじを突きとばした。
- 作者: 石川淳
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 1989/09
- メディア: 単行本
- クリック: 2回
- この商品を含むブログ (2件) を見る
親父は、過去に蓄えた義理人情の暖かさの中に暮らします。客はその点冷酷ですが、常に前に進もうとして足がざわざわ騒いでいます。また「今日」が踏み台に過ぎないとするならば、客は「今日」というときに「癒し」だの「安らぎ」だのといった、「昨日」の充足は決して求めないでしょう。そう断言出来るのは、私が客と同じだからです。そして、おそらく石川淳も。
「ぼくの知っていることは、ぼくの明日の生活だけだ。(略) きのうはどうしたか、いや、きょうはどうして生きて来たか、もうおぼえが無い。」
「だが、あたしにとっちゃ、この一杯の焼酎はきょう一日がおわったということだよ。(略) あしたという日のことは、かんがえてみたことがないよ。」