織田作之助「勝負師」

 ちょうど1ヶ月前、私はある文芸雑誌に、静かな余生を送っている坂田三吉の古傷に触れるようなことを書いた。だが、私は今また彼のことを書こうとしている。それは人生で最も大事な勝負において常識外れの、前代未聞のを指し、そして敗れた坂田の中に、私は私自身の姿を見たためである。その態度に自分の未来を擬したく思ったためである。

聴雨・蛍―織田作之助短篇集 (ちくま文庫)

聴雨・蛍―織田作之助短篇集 (ちくま文庫)

 「退屈な勝利を得るよりも、美しく負けた方がいい」と言ったのはヨハン・クライフですが、これは客の目は自分の目であると信じた上で、自らの生き方を貫ぬくことが結果よりも優先されるという考え方で、それにこだわった人生を送ろうとするものです。
 けれども、結果を重視する人間からは「仕事であり、結局負けてしまっては何の意味もない」と言われるでしょう。けれども坂田三吉は敗れても自らを貫きました。それも2回も。その気持ちを汲み取るのが作者・織田作之助の仕事です。
 これは作者が言うように「のた打ちまわる自信の声」であったように思います。時代が悪く、周囲の目が悪いのであって、自分は絶対に正しいのだ。後の人間に理解されることを期待するほど、現代の主流から遠く離れてしまった。しかし、時代への迎合を無視して生きる、本物のオリジナリティを持った人間だけが持つ孤独、そして、輝き、可能性。もちろん、それに光を当てることが出来るのは、同様に曲がった人間に限られるため、作者の声は自分自身に跳ね返ります。

 自己の才能の可能性を無限大に信じた人の自信の声を放ってのた打ちまわっているような手であった。この自信に私は打たれて、坂田にあやかりたいと思ったのだ。いや私は坂田の中に私の可能性を見たのである。