大江健三郎「河馬に噛まれる」
僕はある日、アフリカで日本人の青年が河馬に噛まれて怪我をしたという新聞の記事を読んだ。「河馬の勇士」と綽名されるその男は、かつて僕とわずかながら関わりのあった青年で、彼のアフリカ行きには僕にも責任があるようだ。彼との関係のはじまりは、彼の母親のマダム「河馬の勇士」に我々グループが大学時代に、食事の世話になっていたことによる。
自由自在に時代を行き来する独特の語り口によって語られる成長物語、それは現在の「私」と「河馬の勇士」、過去の「私」とマダム「河馬の勇士」とのつながりについてです。浅間山荘事件や環境汚染問題、青春の穴埋めをしようとして遅ればせながら勉学を始めた「スロオ・スターター」に対する目線や、生きる力を失った者が停滞する「穴ぼこ」の存在など、言及は多岐に渡ります。中でも、自らを無価値であると考え、浮上する気力を持たない若者に対して、同じような経験を経てきた年長者としての願い・希求の描かれ方に、大人の目線を強く感じました。
河馬に噛まれた男について、同じ話を2度聞かされます。けれども詳細を知る前と知った後では、話から感じ取るものは当然異なります。それは作中で重要なポイントとなる「糞便」(!)や「河馬」へのイメージと同じですし、それは年月をおいてから再読・再見することで作品に対するイメージが変わることと同じです。このことは一般に「成長」と言うようなので、この作品は、読むだけで体験できる成長物語であるように思いました。
一読それと判る造り上げた短い物語の中に、さりげない形で社会批判も、文明批判もはめ込まれている。久しぶりで、ぴりっとわさびの利いた知的な短篇にお目にかかった思いである。(井上靖)
アクチュアルな事件とブッキッシュな知識に拠りながら、作者の語り口は巧妙で、大江氏らしいウィットすら感じさせた。(山本健吉)
- 作者: 大江健三郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1989/02/10
- メディア: 文庫
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