中野重治「空想家とシナリオ」

 車善六は空想家だった。たとえば彼は自分の名前の由来についても空想に浸っているのだった。また彼は役所での仕事の合間にも、創造的苦痛を伴うような自分にあった仕事、たとえばシナリオを書くことなどを考えていたのである。彼の空想はどんどん広がっていく。啄木、バルザック、龍之介、グーテンベルグ、ファーブル・・・けれども、いざ原稿に向かうとその羽は閉じ、今日もやっぱり役所へと向かう。

空想家とシナリオ・汽車の缶焚き (講談社文芸文庫)

空想家とシナリオ・汽車の缶焚き (講談社文芸文庫)

 あらゆるシュミレーションをしなければ実践出来ない人間は、スタートを決断するまでに、大変長い時間がかかります。「まだまだ足りない」として延々と準備運動を繰り返すのですが、誰かが「いいかげんにしろ!」と後ろから突き飛ばすことで、はじめて前へ踏み出すことでしょう。準備不足でもスタートした後に修正することで、意外と対処出来るのですが・・・。けれども、この作品の主人公ときたら!ここにあるのは、遅刻することが分かっているのに布団から出ることが出来ず、「ああ、自分はダメだ」というような怠惰さに対する自虐的快感です。それを愛する人は、この話に共感出来るはず。