円地文子「樹のあわれ」

 武治が定年を過ぎても高級呉服部の現役主任でいられるのは、彼の技量を買われている為である。しかし、このごろ老眼に加えて勘が鈍くなってきており、ボロが出る前にそろそろ退職した方が利口だろうと思ってはいる・・・。今日は女店員・熊田葉子に注意をしてやらなければならない。彼女は職場での女房役として切りまわしてくれているが、先日、外から無視できない苦情がきたのである。

 定年を過ぎても職にとどまっている老年の主人公を支えているのは、「自分は代役がいないほどの名人なんだ」という自負ですが、一方では「自分はもういつ辞めさせられてもおかしくない」という現実的な不安も当然抱えています。
 主人公はそんな自分の状態を、樹にたとえます。いつ刈られてもおかしくはない存在としての樹。捨てるのも残すのも上司の意志次第という樹――。しかし、大樹となった老齢の樹は周辺環境に密な生態系を築いており、簡単に捨てることは出来ないはず。不安定な立場にいるのは自分ひとりではないという仲間意識に、不安定な立場に陥るのは自分ひとりではないという道連れの意識が反駁されることで、作品のトーンは「哀愁」からさらに変化してしまうのでした。社会の厳しさと老年の痛さをさらけ出す作品です。

 欅は強い木だから、伐られることさえなければ間違いなく自分よりも長く地上に生き耐えていくだろうと武治は思った。しかし、一方では、人間の意志がこの木を取除いた方がいいと極めれば、もうその翌日にでも、伐り倒されるのをどう防御しようもないのだと思うと、年老いたままにみずみずしい若さを保っている欅の木が、乳離れしない前に捨てられた子犬や子猫以上にあわれに思われるのである。犬や猫はなき声で自分の置かれている無防備な状態のあわれさを人間に伝えることが出来るが、ずっしり土に根を降ろし、一見幾百年も生きつづけるように見える木には、人間の情感に訴える生な声は持たないのだ。