大江健三郎「頭のいい「雨の木」」

 暗闇の壁をもち驟雨を降らせる「雨の木」から戻ってくると、少年青年を愛するビートニクの詩人と車椅子の天才建築家の論争が、僕を待ち受けていた。それは彼らの足元あるいは背後にいる聴衆を意識したゲームあるいはパフォーマンスであったが、下降堕落の方向と上昇啓発の方向とのあいだの差異についての論争であり、世界を知る「位置」についての建築運動さらにはそれに引き続く勢いを生むものだった。

「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち (新潮文庫)

「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち (新潮文庫)

 連作短編「「雨の木」を聴く女たち」の中の一篇。ハワイ大学での講演とそれに続く懇親会での出来事が語られ、一見して海外知的小説といった趣ですが、いくつもの箇所においてチラチラとリアルなものが見えています。ここで肝心なのは、生活する位置についての認識です。それはいわば「人々を気分を良くさせる簡潔にして最良の方法は、自分自身を下位の位置に置いてやることだ」という逆説です。
 相手に勝ろうとする原理原則からは、相手より勝ろうとする意識しか生みません。伸びきった競争原理や結果重視のテクニック至上主義は、本当の意味での中身をともなったものではありません。言い訳可能な状態で中途半端に成功しつづることよりも、完膚なきまでに叩きのめされた方がいい。すると相手云々ではなく、自分を知ることの大事さに気づくはずであり、さらにもう一歩進めたら、「ベストを尽くしたから満足」などとは思わずに、「ベスト程度を尽くせてしまったことに不満足」を抱くはずです。満足なんてするわけがない。