安岡章太郎「蛾」

 私は医者を好まない。それは私の身体を、他人に知られることが不愉快だからであろう。近所には芋川医院があるが、まったく流行していない。きっと彼も私と似ているのだ。医院が流行らないことが近所や家族に恥ずかしくてならず、あんな奇怪なことをしでかしたのだ。ところでむし暑い夜、窓をあけはなって読書していたとき、一匹の虫が私の耳の穴にとびこんだ。

海辺の光景 (新潮文庫)

海辺の光景 (新潮文庫)

 さまざまな劣等意識にさいなまされつづける主人公は、自分の位置を相対的に高くするために自分よりも下位に位置するものを探し、そしてイジめようとします。
 浮上するための努力を放棄したその様子は、どこからどう見ても格好いいものじゃありません。ただ、そんな人間を描いたものであっても、安岡章太郎にかかると、どん底まで堕ちきった感がないためでしょうか、ユーモラスに読めちゃうから不思議です。