丸谷才一「墨いろの月」

 翻訳家の朝倉がバーでマスターから聞いた話によると、どうやら30年ほど前に自分が喧嘩を教えた子供が現在ヤクザの親分になっており、「あのとき教わっていなかったら、今の自分はない」と言ったらしい。喧嘩に負け続ける子供に指南したことは自分の中では美談だったが、マスターの話をきっかけに朝倉は自分の人生は失敗だったと思ってしまう。とにかくもっと詳しい話を聞くために、マスターにもう一杯おごる。

文芸春秋短篇小説館

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 何気ない生活で聞いた偶然が、さらなる偶然を呼んでしまい、主人公はかつて行った行為の結果を証明しなければならなくなります。出会いと思い出が伝承につながっていき、世代の数が増えたり減ったり、ぐるりと巡ったり、とても面白いストーリー。舞台配置の妙、気分の上下動のユニークさなど、短い中にキレある作品です。
 基本的に善の気持ちから与えた物であれば、それを生かすも殺すも本人の努力次第なのだから、主人公の心配は本来全くもって不要です。将来的な悪影響の要素を全て考えれば、何もせずに見てみぬふりをするのが一番でしょう。しかし、それでは事態は悪化はしませんが、決して改善することもありません。その先送り人生に満足出来ない人が、そしてかつて先送った経験を悔いた人こそが、お節介な旅の隠居となるのでしょう。そこに気づいて開き直る、主人公に満足。