大江健三郎「個人的な体験」

 アフリカ旅行の夢を抱く鳥(バード)が授かった、障害をもった赤んぼう。障害のある怪物に人生を引きずられたくはない。そうでなければ、これからの生活は?・・・すでに植物のような赤んぼう。どうせ死ぬだろう。すぐに死ぬはずだ。死んでくれ。・・・エゴイズムが恥ずかしさの癌をうみ、鳥(バード)は発狂寸前になる。女友達の部屋へ行き、酒と快楽による安定を求めるが――。

個人的な体験 (新潮文庫)

個人的な体験 (新潮文庫)

 大江健三郎の代表作の1つであり、現在まで続く道筋を定めた記念碑的作品。暗く暗く、底へ底へ。どこまでも沈みこみ、大底に到達し、そこで出会ったのは・・・そして、その後は上に行くしかないはずですが・・・。
 アフリカへの自由の旅を夢みて、遠くへ飛ぼうとしている主人公・鳥(バード)。妻の存在はもとより、障害をもった子の誕生も、彼に安定を与えることはありません。夢を捨てて現実に生きることを(意志とは無関係に)強いられた主人公が青年から大人へ変換する過程を、重苦しさの中に閉じ込めて濃密に閉鎖的に苦しく描いた話です。
 赤んぼうの死を望みながら、だんだんと退廃し、延々と続く、発狂しそうな日々の描写は、まるでデビッド・リンチの映画のよう。日ごろ独立して生きている人間でも、弱さを見せるときは人の暖かさを求めます。けれどもそれはエゴイズムと紙一重であるようです。また、あらゆる感覚が「恥」の感情へと傾斜していき、内へ内へと向かっていく様が興味深く、「日本人」を強く感じます。

 読み進むうちに、物語を追うよりむしろ画でも見るような自然な感覚が私を領し、その色調が、あざやかに見えて来た。(小林秀雄