高見順「ノーカナのこと」

 陥落直後のラングーンで、印度人コック長ポトラーズは特別料理を作る約束を果たさなかった。材料費をくすねておいて、発覚しても謝らなかった。私はそんなポトラーズから印度人を考え、ひいては人間に絶望しそうな自分が恐かった。そんなときでも給仕ノーカナは常に誠意を示してくれた。私はノーカナを信頼した。絶望に陥りそうだった私は、彼にしばしば救われたのである。だが・・・。

 人は誰しも人間という同族に対する信頼を抱く本能がありますが、社会生活において利己的な行為を目の当たりにするとその信頼は徐々に損なわれ、言葉や行動の裏を読んでは相手の顔色をうかがうようになってしまいます。世間に生きる人間たちはそれこそが「世間を知ること」だといいますが、自分の世界を持っている人間はそれを「精神的な堕落」と言うことでしょう。周囲に合わせて自分を下げていくのは愚かなことです。主人公の周囲にいる人間たちはいずれも「世間慣れ」した人間たちですが、主人公は唯一、それでも人間を信じたいと言います。騙されても利用されても、瞬間的に感じる「怒り・憤り」の先には、がけっぷちの信頼から来る許しがあります。それは個に対する信頼という程度ではなく、全人類に対する信頼=愛です。
 この心境に到達するまでには2通りの道のりが考えられます。子供が持つ純真無垢な姿を守って守って守り通すことがひとつ、もうひとつは、絶望を乗り越えて強く復活した人間を見たときの喜びがエネルギーとなったものです。箱入りの過保護だけにより容易に到達出来る前者にはこれから崩れる危うさがありますが、後者の場合は危機を乗り越えてのものなので土台が完成された人格であるといえます。そしてその場合に不可欠なのは「前向きな人間」の存在です。悩みがあってもそれを表に出さずに、常に前向きに生きている人間の存在は、周囲の気持ちを高めることでしょう。