石川淳「無明」

 多賀彌太郎は武家の非礼をこらえかねてなじれば、武家はあざ笑ってののしった。勢い刀をつかむに、さきも手が早い。ただし浅手。彌太郎ひるまず、抜打に一刀、これを斬りたおした。やむをえぬ仕儀、武家の死骸の上に腰かけて、もはやこれまでと切腹、刀をくわえて死んだ——この事件をきっかけに、追うものが追われる者になり、明かりのない殺しの道が続く。


 タイトルの「無明」とは仏教用語であり、「迷い」や「智恵の光に照らされていない状態」のこと。その通り、この作品に未来はなく、明るさは見えません。一件落着の後に、追った側が追われる側になり、再び三度、討伐が続き、人が人を殺めます。その中に、作者の感情、ひいき目といったものは全く入っておらず、非常に殺伐としたものを感じます。しんどい作品であり、ないために、そこからあるものを探したくなります。
 ここには尻尾をかんで数珠繋ぎになった蛇たちの姿が見えます。飽きること、尽きることのない欲望の姿が見えます。噛むことと噛まれることは一対であるとして、それはいつしか当人たちにとってのルールになっています。けれども、その流れを無視する人間が現われると(このへん、坂口安吾桜の森の満開の下」ばり)、バランスは崩れて、時代が動きます。そして、そこにはどの程度の意志(の強さと方向)が必要なのか——といった点が面白く感じられました。