坂口安吾「青鬼の褌を洗う女」

 そもそも私は男に体を許すことなどなんとも思っておらず、気だるいだけで、好きであればいいという感覚だ。それを人は不潔だというが、難しいことが面倒なだけなのだ。そのうちに戦争がやってきて母親が死んだが、私は気楽な生き物であった。国のことは他の人が動かすものであり、自分は目の前の今、この瞬間を楽しむだけだと思っている。ただ、ときどき母親に似てくる自分にガッカリするだけだ。

白痴・青鬼の褌を洗う女 (講談社文芸文庫)

白痴・青鬼の褌を洗う女 (講談社文芸文庫)

 坂口安吾が自身の三千代夫人を念頭において書いた小説です。安吾が理想とした女性像が描かれますが、女神として終わらせるのではなく内面に踏み込んで、矛盾や嫌らしさや自己嫌悪まで書きこんでいます。この女性は少々変わっているように思うのですが、作者はそれも一種の能力であると考えます。女性自身はおそらく何も考えておらず、ぼんやりと気の向く方向へ進んでいくだけ・・・。その姿は一見「白痴」的でありますが、周囲を気にする現代人が失った極めて純粋な姿だという解釈です。
 また、「仕方がない」と熟慮を途中で投げ出して目の前の快楽に身をゆだねるのは、一見すると努力に欠けた姿に映ります。しかし自分の能力の範囲を知る人間は、問われた瞬間にそれに答えられるかどうかを判断するものです。どれほど考えても答えが出ないことが瞬時に判断されたならば、無駄な悪あがきをせずに早い段階で無知を認め、それに代わるものを提出する――それも一種の能力であると思っています。

 彼は亡くなるまで「青鬼の褌を洗う女」という作品を大切にしていた。それは作品の出来、不出来に関係はない。人に聞かれてあなたは御自分の作品中代表作はといわれると、「代表作などというものはないです。人が決めるものです」という。
 ではお好きなのはと聞くと、「青鬼の褌を洗う女」という風に答える。
 彼が時たま彼の部屋で仰向けに寝て「青鬼の褌」を読んでいるのを見た。
 私はそんな時、私を愛しているからだろうか、と思ったりするのだが、違うかも知れないと思ったりもする。彼があの小説を愛するのは彼のあの当時の感動を愛しんでいるのかも知れないと思う。
坂口三千代「クラクラ日記」)

 窮すれば通ず、困った時には自然に何とかなるものだ、というのが、私がこれまでに得た人生の原理で、私に母をたよる気持のないのも、私の心の底にこんな瘤みたいな考えがあるせいだろう。(中略)私自身がそんな気持ちだから、人々の不幸が私にはそれはいうまでもなく不幸は不幸に見えるけれども、また、別のものに見えた。私には、たしかに夜明けに見えたのだ。