石川淳「修羅」

 時は応仁の乱世、小さな戦のひとまず片付いた河原にて。足軽の死骸の間より、ゆらゆらと生身の女がにおい出た。あたりに目をくばったのは、陣から抜け出した山名の姫。都にもおそれられた古市の里に下り、主とちぎりをむすんだ女は数万のかしらとなって都へ出る。その女の名は、胡魔。それは春駒か、あるいは魔か――。

修羅 (1958年)

修羅 (1958年)

 歴史ファンタジー。雑兵と呼ばれ数の大小で勘定される「足軽」ですが、この小説では、足軽の意向が世界の方向を決めるのだ、という角度から世の中がとらえられています。
 戦争を仕掛けるのは大将、大統領ですが、実際に死ぬのは足軽、市民。乱世において足軽の力は特に際立ち、たとえばストライキを行えば、さまざまな要求が通ることでしょう。
 後半では、当代一の書物庫が狙われるのですが、それはたとえば「国会図書館」が強盗・放火に狙われるようなもの。これは、とても面白い意味を含んでいます。

 「世はわがものという料簡の、そいつらの面の皮を剥げ。うぬが身の痛さ。その痛さの中では、上下のへだてなく、人間はたれでもひとりぼっちだということを、やつらにおもい知らせてやれ。」

 「このわかやぐ身をば、生きながらに、この世の炎の中に投げ入れよ。(略)のぞみの絶えたところに、そなたは生きることをはじめよ。いや、生死のほどは知らぬ。ただ生きることにつとめよ。」