三島由紀夫「命売ります」

 まったく社会がゴキブリに見えたのだ。羽二男は自殺に失敗したことで軽くなり、これまで感じたことのないような気持ちになった。何もかもどうでもよく、生き死にを超越したのだ。そこで三流新聞に広告を出した。「命売ります。当方27歳。秘密は守ります」。数日後、ドアのベルが押され、依頼人が訪れる。

命売ります (ちくま文庫)

命売ります (ちくま文庫)

 三島由紀夫ライトノベルです。
 主人公は自分の命の始末に失敗しました。それで懲りるかと思いきや、一回捨てるという難関を越えたことで、「何だかカラッポな、すばらしい自由な世界」を手に入れ、超越した存在になった<気>になります。そしてライフ・フォア・セイル。―――この冒頭は面白いです。依頼人が行う説明に対して「通俗でつまらない」というあたりから、主人公は「反通俗的でつまらなくない」ことを欲していたのでしょう、スパイにギャングに吸血鬼まで登場し、荒唐無稽なエピソードが挿入されます。ところが実際にそれを経験したとき、<死ぬほど>嫌っていたはずの「家族」「安定」「社会」にもタッチし、その瞬間、命の価値が逆走し、エンディングへと向かいます。
 「会社等組織に属して生活し、生きることに必死な時代に、死ぬことを恐れない主人公を登場させることで、現代に対する強烈な風刺となっている」とは奥野氏の解説文。
 当時は生活がしっかり希望を向いていた時代。あくせく働くことが大きなリターンを生んだ時代において、「ただ、なんとなく」に近い、この自殺の動機は通俗な社会へのアンチテーゼとなり得たのでしょう。しかしまるでローンや税金を支払うために残業し、社会に属する保険として働く現代においては、この動機すら通俗的ですし、逆にそのため主人公の存在は現代にフィットしてきたように思えます。社会から離れて個人として動き、死ぬことを恐れない主人公のスタイルは、現代人がやりたくても出来ないでいる姿のようです。その意味で、この作品は現代において生き返ったように感じます。「人命」に対する淡白さも、当時より現代の方が理解されやすいように思います。作品の先見性に時代が追いついたのか、時代が株価ばりに作品まで後退したのかはわかりませんが、現代において再度読まれる価値が出てきたことに違いはない。ちなみに、パッと思い出したのは「ピエロ・ル・フ」というベルモンド主演の映画でした。
 また、後半には珍しく「苦労する三島由紀夫」を垣間見たように感じます。「吸血鬼」に対する説明を放棄したあたりから、エピソードが荒っぽくなります。最後に登場するんだろうな・・・という人物がそのまま忘却の彼方へ行ってしまったりと、放置されたまま終わる伏線がいくつかあります。丁寧な収束を諦めて、強引に帳尻を合わせた感もあります。初出が週刊誌への連載ということで、予定変更、軌道修正があったのでは?けれども、それもまたこの作品の魅力になりえます。三島由紀夫の破綻した姿を読める珍品、としての魅力です。