石川達三「青春の蹉跌」

生きることは闘争だ。たった一度しかない自分の人生を悲惨なものにしたくない。どのような幸福を選んだところで俺の自由だ。江藤賢一郎の計算はすべて将来に向かっていた。大橋登美子などへは詐術に対する罪の意識より、自分自身への反省がつのった。司法試…

安部公房「人間そっくり」

「ぼく、火星人なんですよ」というその男は、話をきいていればおとなしいが、興奮状態になると手がつけられないらしい。理屈っぽい火星人は、発作のように笑いながら、ぼくを押しのけて「人間そっくりでしょう?」。・・・しかし、こんな話をしても、どれほ…

星新一「人民は弱し 官吏は強し」

星一はアメリカで学んだ手法を事業に応用し、それはことどとく成功した。さらに新しいアイデアを探し続け、仕事は自分、自分は仕事と、勢いを増していた。しかし、成功者が通る道の影には、内にこもるわだかまりをもつ者があらわれる。恥として内向させ、復…

石川淳「六道遊行」

姫のみかどの寵愛をめぐって、はかりごと全盛の平安の世。色香なやましく散る女は、化粧のものか影もなく浮き、葛城山とは逆に行く。小楯がそれとさとって太刀を手に寄ると、追っていくさきに十抱えもあろう杉の大木あり。その穴に踏みこむと、因縁は砂がふ…

石川淳「狂風記」

荒れた裾野はたましいの領地。怨霊の国。えらばれた住民マゴは、ゴミの中からシャベルをつかって骨をさがすと、オシハノミコの因縁でヒメの肌に押しつぶされる。千何百年の歴史をその場に巻きかえし、人間の怨霊が食らいついて離れない。因縁の目方は歴史の…

木々高太郎「人生の阿呆」

両親よりも祖母に育てられた良吉は、盲目の愛をうけて育った。或る時は祖母が憎らしくなったこともあったが、それは良吉にとっては、自分を憎むことだった。良吉は父の良三から、小間使いの娘との間に覚えのない嫌疑をかけられて、欧羅巴へ身を隠すことにな…

久生十蘭「母子像」

和泉太郎、中学一年B組。父は死亡、母は将校慰安所を切りまわしていたが、戦災により認定死亡。「釈放しようと思うのですが、実は、かんばしくない報告が相当・・・先生、あの子は何か過去に辛いことがあったのではないでしょうか」「あれは、母親の手で首…

久生十蘭「鈴木主水」

殿様が御代替の折、押原右内があらぬ権勢をふるうようになった。奥には欠込女が入り込み、連日騒ぎをしているときく。譜代の家来は、火中の栗を拾おうとせず、御暇乞いの声を出すようになった。ある日、家来の鈴木主水は「お家には悪人が不足しているが、そ…

久生十蘭「湖畔」

貴様も諒解することと思うが、自由に対する執着から、俺は情人とともに失踪して新生活をはじめることにした。俺は華族の論客として名声を高めてきたが、実際は避け難い猜疑心と卑屈な根性を持つ、低劣臆病な人間なのだ。この夏、俺は貴様の母を手にかけたが…

石川淳「至福千年」

開国と攘夷に揺れ動く幕末の江戸に、人の心をかき乱すものどもが走る。聖教は己の心にありとして、人形の少年を捧げ、白狐を操る老師加茂内規。下下あつめて天地をかえすのは、千年の地上楽園のためにこそ。我が教につくか死か!そこに気合するどく、まて、…

野坂昭如「アメリカひじき」

ハワイで妻が知り合ったヒギンズ夫妻、このたび日本へ遊びにくるという。俺達、恨む筋合いはないけれど、アメリカの過剰物資を投げられて、それを拾う情けなさ。ギブミーシガレット、チョコレートサンキュウと兵士にねだった経験なければ、恥かしい気持ちは…

武田泰淳「森と湖のまつり」

映写がつづいているあいだも、入口からは絶えずアイヌたちが降りてきた。そのとき、ツルコ、ツルコというささやきが、女たちの口から口へ伝わった。鶴子は雪子の傍に腰をかがめると、「つまんないな」とつぶやいた。「あいかわらずだな、君は」と池博士は言…

武田泰淳「快楽」

宝屋の若夫人の肉の魅力とその妹・久美子の思いつめた姿が、女への執着を棄てることが出来ない青年僧・柳の頭にあった。善を知るためにはまず悪を知らなければならないと若夫人は言い寄るが、柳は「いやだいやだいやだ」と首をふるばかりだった。悪僧・穴山…

武田泰淳「女賊の哲学」

美しく賢い、しかも強い第二夫人に暗い過去がかくされていようなどとは、誰も想像できなかった。ある朝、城に向って白蓮教の集団が迫ってきたのである。夫の県長はいつまでも来ない援軍を求めながら、次第に発狂したようになった。第一夫人が「私たちを救っ…

島尾敏雄「出発は遂に訪れず」

固い眠りから覚めた私は、変りのない一日がまだ許されていることを知る。死の淵に立っていても睡眠と食慾を猶予できないことが、私を虚無と倦怠におしやり、暗い怒りにみまう。特攻隊の指揮官として出来ることはすでにないが、さし迫った状況はどこに行った…

開高健「日本三文オペラ」

フクスケが連れていかれたゆがんだ家では、大男たちが洗面器に入った牛の臓物を食っている最中だった。元陸軍砲兵工廠の杉山鉱山から豊富な鉄を笑うために、住民800人全部が泥棒となった部落・アパッチ族。そこでは親分、先頭、ザコ、渡し、もぐりなど見事な…

大江健三郎「頭のいい「雨の木」」

暗闇の壁をもち驟雨を降らせる「雨の木」から戻ってくると、少年青年を愛するビートニクの詩人と車椅子の天才建築家の論争が、僕を待ち受けていた。それは彼らの足元あるいは背後にいる聴衆を意識したゲームあるいはパフォーマンスであったが、下降堕落の方向…

円地文子「樹のあわれ」

武治が定年を過ぎても高級呉服部の現役主任でいられるのは、彼の技量を買われている為である。しかし、このごろ老眼に加えて勘が鈍くなってきており、ボロが出る前にそろそろ退職した方が利口だろうと思ってはいる・・・。今日は女店員・熊田葉子に注意をし…

中野重治「空想家とシナリオ」

車善六は空想家だった。たとえば彼は自分の名前の由来についても空想に浸っているのだった。また彼は役所での仕事の合間にも、創造的苦痛を伴うような自分にあった仕事、たとえばシナリオを書くことなどを考えていたのである。彼の空想はどんどん広がってい…

丸谷才一「墨いろの月」

翻訳家の朝倉がバーでマスターから聞いた話によると、どうやら30年ほど前に自分が喧嘩を教えた子供が現在ヤクザの親分になっており、「あのとき教わっていなかったら、今の自分はない」と言ったらしい。喧嘩に負け続ける子供に指南したことは自分の中では美談…

武田泰淳「もの喰う女」

私は最近では、二人の女性とつきあっていました。男友達も多い弓子との付き合いは、愛されているようであり、馬鹿にされているようでもあり、その反動が私を房子に近づけました。房子は喫茶店で働く、貧乏な女でした。彼女のそばに居ると、弓子のおかげでい…

石上玄一郎「精神病学教室」

まったく自信がもてない医師・高津に、教授は手術を薦めてきた。「患者の危険も、時によってはやむを得ないものだ」。一方では、親友に死期が迫っている者がおり、高津は彼には延命をこころみる・・・。ここに現代医学から絶望視された二人の患者がある。彼ら…

北杜夫「楡家の人びと」

大正八年、年末恒例の賞与式では、朗々と響き渡る青雲堂主人の声に応じて不思議な人物たちが壇上へ昇ってくる。そのひとりひとりに賞を手渡す、院長・楡基一郎の仰々しく得意げな様子。それらを長女・龍子は微動だにせずに、三女・桃子は興味と熱意をもって…

佐多稲子「水」

春の日の正午過ぎ、上野駅のホームの片隅で、幾代はしゃがんで泣いていた。彼女がしゃがんでいる前には列車の鋼鉄の壁面があり、ときどき彼女のすぐ前を駈け抜けて行く人がある。幾代はつかまり場を欲した姿勢そのままに、ズックの鞄を両手にかかえこんでい…

色川武大「右むけ右」

私が昭和十五年に入学した中学校は、内面のことよりも外面を正すことに特徴があったように思う。それは中島校長の教育方針にあったのだろう。今、当時のことを振りかえるにあたり、私はこの小文を恩師の美談にするつもりはない。劣等性だった私は教師たちか…

色川武大「サバ折り文ちゃん」

顔と胴体が異常に大きく、足が細い。身の丈は二メートル弱。出羽ヶ獄文治郎は、全体の感じが陰気で痴呆的な巨漢力士だった。大正から昭和にかけて文ちゃんの愛称で親しまれ、負けても勝っても日本中の人気者だった。だが、その人気はマイナスのものであり、…

坂口安吾「盗まれた手紙の話」

兜町の投機会社に飛び込んできた、見知らぬ精神病院からの分厚い手紙。そこには予言を得るようになったという、元駅員の患者が書いた几帳面な文字がびっしりと並んでいた。饒舌につづられた手紙の内容は、果たして嘘か誠か――。暇つぶしに楽しんでやろうかと…

田中英光「桑名古庵」

桑名古庵は、土佐における最初のヤソ教信者とされているが、この情報はだいぶ怪しい。むしろ彼の生涯の方に封建社会の犠牲者としてのはっきりした栄誉があると思う。白髪が増えてゆく母、一人立ちして医者になる古庵、それぞれに生きる兄弟たち、そしてキリ…

井伏鱒二「黒い雨」

ここ数年、姪の結婚話がうまくいかなかったのは、彼女が原爆病患者であるという噂が邪魔しているからである。彼女を広島に呼び寄せた責任もあり、重松は心に重荷を感じ続けてきた。それでも今回は上手くいきそうである。昭和二十年の日記を書き写し、仲人に…

坂口安吾「花妖」

「孤独が心地いい」とうそぶき、終戦後も防空壕に起居する父、その父を軽蔑する母。開放的な遊び人の次女、前時代的で暴力的な男であるその夫。そして狂気的情熱を持った長女・雪子。終戦後の変化について行く者と行けない者が混ざり合った物憂げな一家が過…