佐多稲子

佐多稲子「水」

春の日の正午過ぎ、上野駅のホームの片隅で、幾代はしゃがんで泣いていた。彼女がしゃがんでいる前には列車の鋼鉄の壁面があり、ときどき彼女のすぐ前を駈け抜けて行く人がある。幾代はつかまり場を欲した姿勢そのままに、ズックの鞄を両手にかかえこんでい…

佐多稲子「キャラメル工場から」

ひろ子の父親は仕事をしたりしなかったりで、家族を怒鳴り散らして過ごしていた。ある日、彼はひろ子へ向かって、遠い場所にあるキャラメル工場での仕事をつたえた。工場の名が知れていたので、気が向いたにすぎなかった。ひろ子は次の日からしょぼしょぼと…

佐多稲子「夜の記憶」

作家の彼女は電車を乗り間違えてしまった。今晩はもうどうしようもないため、宿を求めて知人のいる駅に降りたった。以前も泊めてもらったが、今回はちょっと気が引ける。なぜなら彼女は先日、共産党を除名されたからである。迷惑をかけるんじゃないかしら、…