小林秀雄「人形」

 大阪行きの急行の食堂車で、私の前の空席に、上品な格好をした老夫婦が腰をおろした。細君が取り出したのは、おやと思う程大きな人形だった。背広を着、ネクタイをしめているが、しかし顔の方は垢染みてテラテラしており、眼元もどんより濁っていた。妻ははこばれたスープをまず人形の口元に持って行き、自分の口に入れる。行為の意味はもはや明らかである。


 電車の中で出会った老夫婦について描いた、とても短い作品です。老夫婦、彼らの行為は、半径数メートルに異なる空気を生産します。察することに長けた人間たちによる暗黙の了解、得られるのは一種異様な緊張感。
 話しかけることが躊躇われる張り詰めた空気は、日本人同士の慎ましさが造り上げたものかもしれませんが、もし誰かが話しかけたとしても、こうした平衡は壊れるだけとは限らないように思いました。



 この作品は、さりげないスケッチのようでありながら、人に切迫して行く力を持っている。煩手を避けて、省けることは省けるだけ省いている。叙事詩として見ても、戦後文学に於ける絶唱である。(井伏鱒二