北条民雄「いのちの初夜」

 不治の病を宣告されて以来、尾田は日夜死を考えていたが、考えるほどに死にきれなくなって行く自分を発見するばかりだった。いったい俺は死にたいのだろうか、生きたいのだろうか・・・。しかし、佐柄木という患者は違った。尾田よりも重い症状なのだが、明るく生きているように見受けられた。その強さはどこから来るのだろう?

 不治の病を宣告された人生は、絶望を通り越して、「どうせ死ぬんだから」と捨て鉢な行動に走ってしまいそうです。しかしこの作品に登場する佐柄木は、そんな中でも落ち着きを見せ、何かをしよう成し遂げようという方向に、自らの気持ちを置いています。
 それは決して無理やりなものではなさそうです。全ての可能性にチャレンジし、その全てに失敗した後で、自然と生まれてくる心境のように思われます。与えられた運命の下での生、それは仏教的なものでしょう。そのための方法として物語の終盤で彼の口から語られることには、理屈を超えた力強さがあります。
 この話を読んだ人は、死への近道を躊躇し、生の可能性を見つめなおすことでしょう。人によっては、より不幸な人間を思って、自らの不幸の程度を知るかもしれません。文章は読みやすく、思考もストレートで理解しやすいため、あらゆる人に受け入れられる作品です。

 彼はぼんやり佇立したまま森としたその明るさを眺めていたが、その明るさが妙に白々しく見え出して、だんだん背すじに水を注がれるような凄味を覚え始めた。これはどうしたことだろうと思って大きく眼を瞠って見たが、ぞくぞくと鬼気は迫って来るいっぽうだった。体が小刻みに顫え出して、全身が凍りついてしまうような寒気がしてき出した。じっとしていられなくなって急いでまた踵を返したが、はたと当惑してしまった。全体俺はどこへ行くつもりなんだ。どこへ行ったら良いんだ、林や果樹園や菜園が俺の行き場でないことだけは明瞭に判っている、そして必然どこかへ行かねばならぬ、それもまた明瞭に判っているのだ。それだのに、
 「俺は、どこへ、行きたいんだ」
 ただ、漠然とした焦慮に心が煎るるばかりであった。――行き場がないどこへも行き場がない。曠野に迷った旅人のように、孤独と不安が犇々と全身をつつんで来た。熱いものの塊がこみ上げて来て、ひくひくと胸が嗚咽し出したが、不思議に一滴の涙も出ないのだった。
 「尾田さん」
 不意に呼ぶ佐柄木の声に尾田はどきんと一つ大きな鼓動が打って、ふらふらッと眩暈がした。危うく転びそうになる体を、やっと支えたが、咽喉が枯れてしまったように声が出なかった。