大江健三郎「万延元年のフットボール」

 僕の生活は下降の限りをしつくして、穴ぼこの中にすでに出口はない。あるのは「恥」の感覚ばかり。弟の鷹四はそんな最低の僕と妻とを、故郷四国にいざなうが・・・待っていたのは、暴力に憧れを抱く青年たち。彼らを煽動する弟と、見る影もない自分。そして聞こえてくる、万延元年の一揆の伝説。

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

万延元年のフットボール (講談社文芸文庫)

 「暴力的なもの」に憧れを抱き、煽動されていく人間たちに対して、存在を喪失してゆく主人公は、言葉の力を武器に、勝ち目のない戦いを挑んでいきます。暴力の上塗りが物語の展開をヒート&スピードアップさせ、それらの行為に対する審判が下されるに至ります。
 自らの悪しき行為を勢いに乗じた理不尽さで認めてしまうことが、自分たちの英雄視化に繋がっていきます。「一揆」の心理を描いただけではなく、新興宗教めいたものも感じました。それでも主人公は自分を変えません。それは冷静で分析的な観察者の目を、正常な視点を、狂気に堕ちて行く小説に与え続けるためでもあるのでしょうか。観察者を持った、アル・パチーノの映画「スカーフェイス」という印象を受けました。
 また、本来の欲望をひた隠しに隠し、それをvs権威・権力という構造に摩り替えることで、民衆の支持を仰ごうとする姿が見られるのですが、これは現代の日本人に対しても通用する方法であり、とても面白かったです。

 「きみのように劇的な幻影にしたがって生きることを好む者も、もし狂気にでもおちいるのでなければ、危険な緊張をいつまでも持続させることはできない」