大江健三郎「下降生活者」

 将来を嘱望される助教授だった僕は、自身を上昇させることにやっきになっていた。出世のために全てをささげていたといっていい。ああ、唾をはきたければはくがいい。これが一年前の自画像だ。だが去年の夏のころである。順調さからくる不安と警戒が与える限りない孤独に怯えるようになった僕は、《希望》を保ったまま階段から降りることにした。つまり《架空の僕》を作り出すことによって。

見るまえに跳べ (新潮文庫)

見るまえに跳べ (新潮文庫)

 面白い冒頭から始まる、元助教授の独白体。テンポのよさと展開の意外に引っ張られ、ぐいぐい引き寄せられる作品です。エリートとして生きる自分の「安全弁」を、かつて渇望した姿(架空の僕)になりきることで行う二重生活の行方。まるで映画「クライング・ゲーム」のような哀しさを抱きました。

 僕はアルコオル中毒でもないし、麻薬中毒でもない、僕は饒舌なだけなのだ。僕がとめどなくしゃべりたがるのは、これが僕の天性だからなのだ。

 僕の頭は唾の白っぽい飴色の放物線にむかってさしだされるだろう。それは僕自身の唾でもある。