井上友一郎「受胎」

 漫才師の草八と偶然再会したとき、わたくしたちは上機嫌で飲み、彼は芸界の辛酸についても語ってくれた。そして彼は、せっかく板についてきた漫才師の職を投げ出してまで、浪花節をやりたいというのであった。いったいどういうことだろうか。草八は語りはじめた。それは名人・吉田の家に下宿し、その妻と駆け落ちしたことから始まる。

 好きじゃない職業の一流として生きるのか、二流三流でも構わないから大好きな職業に生きるのか?気持ちとしては後者ですが、金銭という実際問題が立ちはだかるため、実現は「脱サラ」「定年後」になりがちです。それでも中には子供のころから好きだった職業において一流の素質を持ち、一生その仕事を続けられるという幸運な人がいます。
 草八は、芸人としての名人・吉田を尊敬しつつも、人間としての吉田に別な感情を抱いていきます。そして感情は次第に抽象化され、「妙な思いつめ方」をするまでに至るのでした。その回想を軸とした作品ですが、ラストの行は幸運なまま生きている人にダメージを与えることでしょう。自分で選んだ仕事なら、苦労を表に出してはいけません。ましてや好きな仕事であるなら、なおさら。
 回想シーンに入っていくあたりの自然な雰囲気がとてもよかったです。