坂口安吾「白痴」

 伊沢は人間社会を批判しながらも、給料をもらわなくては現実的に生きられない自分を恥じ入っていた。その代償として得た一般社会からの孤独は、側に味方、理想をいえば女を求めていた。そんな伊沢の家に、隣に住む白痴の女が逃げ出してきて、押入れの中で震えていた。爆弾の音が近づいてくる中、その日から違う生活がはじまった。

白痴・青鬼の褌を洗う女 (講談社文芸文庫)

白痴・青鬼の褌を洗う女 (講談社文芸文庫)

 底練りするような力強い文体に支えられた、坂口安吾の代表傑作。自身の名エッセイ「堕落論」を小説化したものと言われます。
 爆弾の雨から逃げまどう姿・・・焼夷弾の音に伏せる人々を文字通り踏みつけて先へ進む男、暖をとるためだけに(消火作業をする住民を無視して)燃えさかる家に集まる避難民。彼らの心は空白で、何の含みもありません。ただ、生きたいという本能が、むき出しになって叫んでいます。
 一般人が「文明」を強奪されたとき、本能という裸の姿になりました。ところが白痴には、もともと本能だけしかありませんでした。かつて一般人はその姿を蔑みましたが、自らが避難民になったとき、彼らは彼女と同様になってしまいました。それどころか、一般人には普段から本能のまま生きる経験がなかったため、彼女の方が理知的に感じられる部分すらあります。すると、白痴と一般人との違いって、いったい何。

 エネルギーは(もしそれがあるとすればだが)しろうとだましの結末らしきところからずっと遠くに突きぬけて、作品をうしろに置きざりにして、さっさと駆け出して行くふぜいだが、そのエネルギーの棒がまた逆にうしろのほうにも効果をきかせて、捨てて来たはずの荷物をつらぬき、それが荷物の値になるという仕掛けである。エネルギーの行くさきは、どこまで行ってもきりが無い。(石川淳安吾のいる風景」)

 人間らしい分別が、なぜ必要であろうか。白痴の心の素直さを彼自身もまた持つことが人間の恥辱であろうか。俺にもこの白痴のような心、幼い、そして素直な心が何より必要だったのだ。俺はそれをどこかへ忘れ、ただあくせくした人間共の思考の中でうすぎたなく汚れ、虚妄の影を追い、ひどく疲れていただけだ。

「僕はね、ともかく、もうちょっと、残りますよ。僕はね、仕事があるのだ。僕はね、ともかく芸人だから、命のとことんの所で自分の姿を見凝め得るような機会には、そのとことんの所で最後の取引をしてみることを要求されているのだ。僕は逃げたいが、逃げられないのだ。この機会を逃がすわけに行かないのだ。もうあなた方は逃げて下さい。早く、早く、一瞬間がすべてを手遅れにしてしまう」