尾崎翠「詩人の靴」

 薄暗い屋根裏部屋に、貧しい詩人の津田三郎が住んでいた。彼は世の中とか人間とかに恐怖と嫌悪を持っていたので、この部屋はその性情に適っていた。机から二歩で窓から外界を眺められ、さらに二歩で寝台へ逃れることが出来るのだ。ところがある朝、三郎は物音に脅かされて飛び起きた。彼の象牙の塔を地獄に突き落す音であった。

尾崎翠 (ちくま日本文学全集)

尾崎翠 (ちくま日本文学全集)

 貧しい詩人の三郎は、狭い空間をめいっぱい広く使うために、体全体を頭の中に放り込んでしまいました。そのため、実際に動かなくても眼と頭を動かしただけで、運動と同じ効果を得られるようになったようです。ところがその閉ざされた平穏無事な世界は、激しい物音によって揺さぶられてしまいます。詩人を主人公に据えただけあって、悲哀や少しばかりの孤独を感じさせる表現にあふれた話です。
尾崎翠集成〈上〉 (ちくま文庫)

尾崎翠集成〈上〉 (ちくま文庫)