石川淳「ゆう女始末」

 ゆう二十六歳は日本橋のど真ん中に住み込んでいるくせに、寄席にも芝居にも興味がなく、見るのも聞くのも政治小説に政治欄。袖ひく男も寄りつきにくく、ゆうは鏡と相談した。ところが明治二十四年のくれ、ゆうの目には夢のうるおいが見えた。――ニコラス様、ロシヤ帝国皇太子様。ところが五月、来日中にニコラス負傷。それを聞いて、ゆう、動く。

 ゆうは、羽ばたこうとします。でも、そもそも彼女はどこに行きたいのか分からなければ、そもそも羽ばたき方についてすらウロ覚え。ニコラスさまの事件にあたって精一杯羽ばたいてみるのですが、それは決して届かない行為、いわば、無駄な抵抗であるかのようです。
 けれども包囲して拡声器で叫んでも抵抗をやめる人はおらず、絶望の情況は反抗心を高めるものだと思います。その上で抵抗を本当にやめさせるためには、その行為を認めてやり、「抵抗」を抵抗でなくすことが一番手っ取り早いと思っています。

 みじかい身たけに寸法をあわせた幸福ならば仕込にあまり元手はかからぬようである。

 目はつぶっていても、肉体は遠くに飛び立とうとしてあえいでいたのだろう。せっかく出てきた東京の文明開化といえども、このゆうの飢をみたすことはできない。