田中英光「野狐」

 ひとのいう、(たいへんな女)と同棲して、一年あまり、その間に、何度、逃げようと思ったかしれない。彼女はかつて売春婦であった。私は妻と4人の子供を持つが、桂子との関係において、はじめて愛を知ったといっていい。桂子はうそつきで、でたらめで、強欲で、浮気性だが、その全てが私には愛しく思えた。私は桂子の中毒患者になったようである。

 「とんでもない女」との恋愛の泥沼に陥ってしまった、哀れな小説家の生き様。田中英光の自伝的作品群のひとつです。悪い女、たいへんな女であることに気づいたときは既に遅く、抵抗する力は残っていません・・・。
 自己弁護や自己批判はほとんど感じられず、まるでヤブレカブレな気分が突っ走った文体で記されます。特に後半はそれが顕著です。リズミカルな短文と、連発される体言止めにより、なげやりな、どうとでもなれというような、あきらめの気持ちが強烈に表現されます。この雰囲気はルイ・マルの映画のよう。

 私とても薬と併用しているから腰が切れない。ふたりでよろめきながら、崖上のYさんの家を出てゆくのに、彼女は足をすべらせ、真っ逆様に、前の溝に落ちてしまった。臭い、すえた溝の中から、はでな湯文字がみえ、暗闇には薄白くみえる、桂子の両股があらわである。才能(テクニック)と身体を張り、一身代作って、勘当された親や身内を見返そうとしている、彼女もまた一匹の野狐。野狐、溝に堕ちる、風流五百生、なぞといった感情が取りとめなく胸に湧いたが、しかし、早く彼女を助けねばならない。
 私は自分も尻餅をつきながら、やっとの思いで、彼女の身体を溝から引っ張り上げたが、泥のおびんずる様みたいになっている。そして周囲にいつの間にか、多くの弥次馬。
「やア女の酔っ払いだ。みっともない」
「水をかぶせて、そこに寝かせておけば治ってしまうよ」
 私は桂子がそんな風に醜悪で、みんなに侮辱されれば、されるほど、いとしくてならない。仕方がないからYさんの玄関にでも、ねかせて戴こうと頼みにゆくと、奥さんが手拭に金盥をもって出てこられ、桂子の顔や身体を一通り、綺麗にしてくれた。