椎名麟三「深尾正治の手記」

 全く僕はどうかしてしまったのだ。まるでこの宿に百年もいるような気がするのだ。自分が追われているという切実感もない。ここは永劫の牢獄である。しかも僕はいつまでここにいるのかも判らない。そしてなぜか僕はここの住人との関係がうまくいかないのだ。周りがおかしいのか僕が変わっているのか分からないし、それもまたどうでもよく、そして今日という日もまた過ぎていくのだ。

深尾正治の手記 (1948年)

深尾正治の手記 (1948年)

 バリバリの共産主義者である「私」が精神に持つアンバランスな安定感が、少しずつ片方へと傾いて倒れていく、そんな心理の変化が微妙にビミョウに描かれていく小説です。
 ハジメとオワリは政治+思想のシリアスものですが、その間に挟まれた箇所のオフビートな笑いが楽しい。奇妙な住人たちとの奇妙な交流は、くすぐりの連続で、まるでコーエン兄弟の映画のようで「なんだこれ」という感想を抱くこと必至。もちろん、少し考えてみれば、それでも「こんな宿」に住むしかない、落ちぶれた人間たちの姿がうかがえるわけですが。

 「腹が立ったら横になって寝るんだ。ぐっすり眠って眼が覚めると、なんでもなくなっている。おかしいほどなんでもなくなっている。人間は眠っているときだけ、自分が、本当に自分のものになっているからそうなるんだよ。」

 腹が立ったら横になれ。これは、私が好きな言葉のひとつ。