坂口安吾「オモチャ箱」

 異色作家・三枝庄吉の主人公は、常に自分自身である。彼の作品は一種の詩で、夢幻のごとくありながら、即物的な現実性を持っていた。しかし今や――彼は自分を見つめる鬼の目を失っていた。架空の空間に根を張ったため、作品は育たなくなっていた。妻との喧嘩もたえなくなり、彼の神経衰弱の度合いは増した・・・。

オモチャ箱・狂人遺書 (講談社文芸文庫)

オモチャ箱・狂人遺書 (講談社文芸文庫)

 安吾自身の作家論・小説論をちりばめながら描かれる悲しい物語、それは自分を見出してくれた先輩作家「牧野信一」をモデルにしたものです。
 「人気作家・牧野がいかにして不調に陥ったか」についての心理面からの分析が続き、最後の最後には「人間・牧野」に対する感情が、とうとう、どうしようもなく、といった感じで析出します。この最後の数行は、とにかく、切ない。坂口安吾が書いた追悼作品はどれも優れているのですが(太宰治織田作之助林芙美子・・・)、その中でもこの作品には強い憤りと、そして立派さを感じます。
 安吾は、死を逃げ道として常に意識し切り札にするようでは、真剣勝負などは出来やしないと語ります。情勢が悪くなったら生を裏切り、死の仲間入りする。これを隠し持ちながら戦う精神は、卑怯で情けなくて、見ちゃいられません。こうした人間に対する安吾の舌鋒は、極めて鋭く、強いものがあります。それはどんなことがあっても決してファイティング・ポーズを崩さなかった安吾にとって、ネガティブさに同情を示すだけでも、自分の存在を支える強がりを乱す危険があるから。自分の生き方がそれによって支えられていることを知っているため、何がなんでも譲れない点。そこに近づけば近づくほど安吾の目は厳しくなります。書くことによって自分を再び固め、負けた人を見ることで「負けてたまるか」という気持ちを強くするのですが、しかし、ふと一歩引いて見渡してみると、死んだのは先輩であり友人であり、悼む心が出てきてしまい・・・。

 プラン通りに行くものなら、これは創作活動ではなくて、細工物の製造で、よくできた細工はつくれても芸術という創造は行われない。芸術の創造は常にプランをはみだすところから始まる。