2004-01-01から1年間の記事一覧

川崎長太郎「夜の家にて」

五十のとしまで独身できてしまった川上竹六は、棲家である物置小屋を出て、町端れにある魔窟「抹香町」を目ざした。そこにはひやかしの路すがら、二三度食指が動いた売女がいる。だが、その女「みえ」としては、としをとった不景気な男を、馴染客としたところ…

尾崎一雄「こおろぎ」

「こおろぎは泣き虫だね。でも、圭ちゃんは泣かないね」「泣かない」。そうと決めたら動かない四つの子供の様子に、私は安堵と同時にいじらしさを感じた。二年前に死にかけて以来、私は自分が初老の男にすぎないことを知った。ひるがえって、こいつらのこの小さ…

中上健次「重力の都」

女郎にもこんなに好きなのはめったにいないと声を掛けると女は笑いながらその事が好きでしょうがないと言い、それから思いついたように死んだ御人はひどいことをすると言い、何度も何度もして欲しいと言った――。「死んだ御人」の影響下で行われる男女の語らい…

大岡昇平「焚火」

空襲のとき、五歳だった私は母と一緒に逃げました。どんと大きな地響きがして、気がつくと、母は腰から下がコンクリートや木材のかけらの下になっていました。そのときの母の真剣な眼が今も忘れられません。「みっちゃん、歩けるわね。一人で行けるわね」。…

野坂昭如「火垂るの墓」

母は息をひきとり周りの人には辛くされ、清太と節子は横穴に住む。すぐに食い物なくなり節子はやせ衰え、人形を抱く力もはいらない。――お父ちゃん、今ごろどこで戦争してはんねんやろ、なあ、お母ちゃん。せや、節子覚えてるやろか、と口に出しかけて、いや…

福永武彦「退屈な少年」

十四歳の健二は退屈しきっていた。もちろん面白そうな動物や植物はある。けれどもいったん退屈であると宣言した以上は、何がなんでも退屈でなければならなかったのだ。僕はもう子供じゃない――。退屈で退屈でしかたがない健二少年、看護婦の三沢さん、少年の…

島尾敏雄「摩天楼」

私は眼をつぶるだけで私の市街のようなものを建設したり崩したりしてみせたりすることが出来る。この私の市街は夢の中の断片をつなぎ合わせたもので、人が密集しているかと思えば空き地があり崩れ落ちた場所があり、野原すらあるように思われる。私はこの市…

福永武彦「風花」

彼は療養所の孤独のなかに生きており、これから行く道も定かではない。詩をつくろうとした彼の思考は、何か別の力によって過去へと、周囲から愛されていた過去へと戻ろうとする。そのとき、彼の顔に何やら冷たいものが降りかかった。(ああ、風花か――)。何…

石川淳「夜は夜もすがら」

千重子はこれが何語かということすら知らない。この本を眺めているあいだが、一日のうちでもっとも清潔な時間である。字を見ても、字のわけがわからない。おもえば普段の生活の中で、何を見、なにを見たとおもったことだろう。そもそも見るとは何か。悟る、…

福永武彦「廃市」

十年も昔のことである。その時僕は卒業論文を書くために、一夏をその町のその旧家で過した。ひっそりとして廃墟のような寂しさのある町。古びた、しかし、すばらしく美しい町。だが、僕は知らなかった。この町の穏やかで静かな生活に隠された意味が何である…

埴谷雄高「《私》のいない夢」

暁方、白昼への目覚めが促されるとき、私は両腕をゆっくりと宙につきだしてみる。なぜなら白昼における存在は《それがそうとしか見えず、他の何をも考えられない》という罠であるから・・・。その時期、私は《私のいない夢》を敢えてみようと試みていたのだ…

北杜夫「第三惑星ホラ株式会社」

「第三惑星ホラ株式会社をつくろうと思う」「ホラを売るのかい?」「そうだ、ホラではなくホラのような真実を売る。ホラは売らずに本当とは思えないような真実を売るんだ。みんなはこれをホラと思って真実とは思わないだろう。もしホラのようなホラではなく…

埴谷雄高「神の白い顔」

「夢とはこれまでに意識の隅で見たものの組み合わせ」といわれるが、これは「《未知》を見よう」という私の決意を挫くものであり、そのために葛藤していた。また私は《存在》のすがたを見ようとしており、存在そのものを背後から眺めたいと渇望していた。こ…

福永武彦「未来都市」

死に憑かれて放浪を繰り返していたその時、僕はヨーロッパのどこかの都会で「BAR SUICIDE」という酒場を見つけた。「死にたければ、特別のカクテルを出しますよ」。バアテンの言葉に誘われるまま、僕はグラスを口へ運ぶ。隣にいた男が、バアテンが叫び、そし…

北杜夫「河口にて」

アントワープからル・アーブルまではわずか一日足らずの距離なのに、船は濃霧のため、未だ河口にとどまっている。このあたりには数十隻の船がぎっしりとかたまり、幻聴のような鐘の音を響かせあっている。すでに空と水との区別もむつかしく、霧はさまざまな…

埴谷雄高「追跡の魔」

逃げつづける夢、というのがある。そこでは誰もが「決定的な大罪」を犯した者であり、暗黒の追跡者から逃げつづけるのである。この夢は、私にめざましい啓示を与えた。いつまでも逃げつづけられれば、すなわち夢を見つづけるならば、やがて宇宙の果てへ辿り…

埴谷雄高「闇のなかの黒い馬」

真夜中過ぎ、遠い虚空から一匹の黒馬が駆けおり、鉄格子のはまった高窓から音もなく乗りいれてくる。黒馬の柔和な目に誘われて尾の先を握りしめると、ふわりと浮いた私の体は暗黒の虚空へ向って進みはじめた。もしこの手を放さなければ、《ヴィーナスの帯》…

北杜夫「少年と狼」

森と山の麓の草原のあたりに、デヒタというへんちくりんな少年がすんでいました。いつも仲間はずれにされていたデヒタは、よし、山へ行ってみよう!と思いました。大変むつかしいことでしたが、デヒタはがんばりました。たどりついたちいさな沼で、デヒタは…

北杜夫「パンドラの匣」

みんな、よく堪えているものだと感心します。あたしは重心がゆがんでいるんでしょう、今にもくずれそうな平衡のもとで、いつもびくびくして生きています。けれどもみんなは軟体動物のようにするすると生きているらしい。あたしが鈍感なのかしら?いえ、たん…

吉行淳之介「驟雨」

その女のことを、彼は気に入っていた。「気に入る」というのは、愛とは別だ。愛によるわずらわしさから身を避けるために、彼は遊戯からはみ出さないようにしていた。そのために彼は娼婦の町を好んで歩いた。だから彼、山村英夫は自分の心臓に裏切られたよう…

吉行淳之介「娼婦の部屋」

秋子は娼婦だった。その体と会話するとき、彼女のさまざまな言葉が私の体へと伝わってきた。この平衡は長くは続かず、いつしか私は彼女の不在をさびしがるようになった。私の下で秋子が既に疲れていることがあり、そのときの気持は、そのまま嫉妬につながっ…

坂口安吾「桜の森の満開の下」

桜の下には風もないのにゴウゴウと鳴っている気がしました。そこを歩くと魂が散り、いのちが衰えて行くようです。旅人がみんな狂ってしまう桜の森がある山には、むごたらしい山賊が住んでいました。美しい女房をさらってきましたが、男はなぜか不安でした。…

島尾敏雄「接触」

私も含まれていたが、近くの席にいた七人は授業中にアンパンを食べた。それは規則で正しくないこととみなされ、その罰は死刑である。くつがえすことのできない校則第十九条に記された規則は、空気ほどの抵抗もなくみんなに受け入れられた。私たちは裁縫室に…

安部公房「無関係な死」

Aなにがしが自分の家に帰ってきたとき、見知らぬ男が死んでいるのを発見した。麻痺状態から立ち直っても助けを呼びに行くことはできなかった。・・・これは彼を陥れようとする狡猾な犯人の罠かもしれない。けれども目の前にある死体もいつまでも大人しくして…

安部公房「時の崖」

おれって馬鹿なのかもしれないなあ。なんでこんなことやってるんだろうって、ときどき考えちゃうんだよ。おれも前はチャンピオンにある気でいたけど・・・でもチャンピオンだって、落ちるのは早いぞ。チャンピオンの向う側が、いちばん急な崖なんだから・・…

安部公房「闖入者」

ノックに応じてドアをあけると、数え切れないほどの大家族がならんでいました。先頭の紳士が「お邪魔しましょう」と言い、全員が部屋に上がり込んできました。ぼくは何も言っていないのに、部屋は占領されてしまいました。ぼくが抗議すると、紳士は急に態度を…

大江健三郎「芽むしり 仔撃ち」

感化院から集団疎開してきた僕たちは、悪意ある壁に閉ざされたこの村に連れてこられた。家畜のような食料に、僕らの心は屈辱で満たされた。だが数日後、大人たちは逃げていった。この村にみられはじめた疫病から逃げたのだ。僕たちを置きざりにして・・・。…

島尾敏雄「死の棘」

寄りそってくる妻はもういない。信頼のまなざしはもう認められない。電車を降りて家に帰ると妻はいなかった。女を刺し殺すのだと言っていた顔が、鶏の首を黙ってしめていた孤独な格好が目に浮かぶ。私は二度と行くまいと誓ったはずの、女の家にふたたび向う…

松本清張「青のある断層」

天才画家・姉川の不調に気づいていたのは、画商・奥野の確かな眼だけだった。姉川は元来寡作なため一般に気づかれてはいないが、二年前をピークに彼の才能は行きづまりを見せていた・・・。そのとき、奥野の店に入ってきた若い男。売り込みである。下手だ。…

松本清張「菊枕」

善良だが向上心や野心のない夫に失望した妻・ぬいは、俳誌に句を投じるようになった。以来家事が疎かになったが、夫はとがめることが出来ず、台所におり子育てもした。ぬいは生来勝気な性格であったが、それは自分より才能豊かな(と彼女が感じた)人物に対…